何かに夢中になると、寝ても覚めてもそればかり。
オペラ、三段跳び、サングラス集め、潮干狩り、刺繍、ハツカネズミetc.
そんな彼が、寒い国からやってきた風船売りに恋をした。
無口な少女の名は「ペチカ」。悲しみに凍りついた彼女の心を、
ジュゼッペは、もてる技のすべてを使ってあたためようとするのだが…。
まぶしくピュアなラブストーリー。
はじめに
絵本みたいな小説だった。
そう感じさせるのは、ひらがなの多さや擬音語の多さなのかもしれない。
もしくは、語り部がいてそのひと目線で話が進んでいく感じが
絵本を思わせるのかもしれない。
なにより、いしいしんじさんの作品はどれも、
どこかファンタジーな空気をまとっていて絵本のようだ、とおもう。
読んでいてふしぎな、ふわふわとした気持ちになる。
それがいしいしんじという著者の魅力だとおもう。
それを感じることができた嬉しさと、
そんな風に世界を作る著者に出会えた嬉しさでにやけてしまった。
ジュゼッペのまっすぐすぎる一生懸命さは、馬鹿にされてしまったりするけれど、
ジュセッペを知る全ての人を惹きつける力がある。
なにかを強く信じまっすぐ生きることの素晴らしさを感じられる小説。
感想
ジュゼッペ
街でトリツカレ男と呼ばれているジュセッペは、
何かに取り憑かれたように1つのことに夢中なってしまう。
それしか考えられなくなり、ときにレストランのバイトをクビになりかけてしまう。
そんなジュセッペは、街の笑い者でみんなにからかわれてばかりだ。
しかし、のちにジュセッペが取り憑かれたあらゆることが活きてくる。
思いもしないことが、思いもしない場面で役に立ったりする。
現代に生きる若者たちは、、、
と私を含めた平成生まれの人たちはよく言われてしまう気がするけれど、
ジュセッペを笑いものにする街の住人は、まるで現代を生きる私たちみたいだ。
現代では、我を忘れるほど何かに一生懸命になることはダサい、
というような空気感があるように思う。
それは、いろんなことが当たり前に溢れる世界で、
そこまでがんばらなくても手を伸ばせば届いてしまう、ということがあるから。
だから、一生懸命に頑張ることの価値を感じにくくなっているのだと思う。
「やるべきことがわかってるうちは、手を抜かずに、そいつをやりとおさなくちゃ。」
トリツカレ男のまっすぐさは、何かをやり抜く大切さを思い出させてくれる。
ペチカ
友達ができない?ちがった。欲しくなかったんだ。
自分とかあさん、このふたりだけでじゅうぶん、私の世のなかは精一杯!
ひとはなにかに必死なとき、限られた世界で生きているような気がする。
そのことしか考えられなくて、他に目をむけられない。
渦の中にいて、いつまでもいつまでも抜け出せない。
そこから引っ張り出してくれるのは、救いの手を差し伸べてくれるのは、
やっぱり”ひと”なのかもしれない。
”ひと”なのだと思う。
ペチカに取りついたジュセッペは、
ペチカ本人さえ気づいてはいない笑顔のくすみに気づいてしまう。
ペチカのために、全てを捧げるジュセッペの行動に
心ゆさぶられ、涙腺が緩む。
そんなジュセッペの努力のおかげで、
ペチカの凍りついた心はだんだんと溶けていく。
そして、ペチカにようやく春が訪れる。
そのひたすらにペチカを想い行動するジュゼッペに、読み進めるにつれ、惹きつけられた。
ハツカネズミとトリツカレ男
ハツカネズミの飼育に取りつかれていたジュセッペは、
育てていたハツカネズミがどんどん子供を産み、そして、あるとき逃げられてしまう。
しかし、1匹取り残されたネズミがいて、
その1匹はことばがわかるハツカネズミだった。
このハツカネズミとジュセッペの関係性が好き。
「なにかに本気でとりつかれるってことはさ、
みんなが考えてるほど、ばかげたことじゃあないと思うよ」
「そりゃあもちろん、だいたいが時間のむだ、物笑いのたね、
役立たずのごみでおわっちまうだろうけれど、でも、きみが本気でつづけるなら、
いずれなにかちょっとしたことで、むくわれることがあるんだと思う」
ときに言い争い、ぶつかり合うこともあるけれど、
本音で言い合える関係性は素敵だなと思う。
そして何より、ハツカネズミはジュセッペのためにいつもすぐさま行動する。
何度も何度も、ペチカの情報を仕入れるためにペチカの部屋へ向かう姿は、
優しさ以外の何物でもなくて、恋のキューピットは間違いなくこのハツカネズミだ。
最後に
なにかにトリツカレ、一生懸命に身につけたことが、後にどんどん身を結んでいく。
というのは、わたしたちに何事も全力でやることの大事さを教えてくれていると思う。
無駄なことなんてひとつもない。
今は感じられなくても、後に絶対なにかに活きてくる。
絵本のようであり、わたしたちへのエールをくれるような、
そんな小説でした。